設立者 小笠原敏晶Toshiaki Ogasawara, Founder
公益財団法人 小笠原科学技術振興財団改め、
「小笠原敏晶記念財団」設立者の“小笠原敏晶”についてご紹介いたします。
小笠原敏晶は、手島精一記念研究賞を授与された建築家であった父と、政治家や事業を起こした家系である母の惜しみない愛情を受け、年少の頃から色々な物事に関心を持つ少年として東京の青山で育った。
また若い頃から英語に対しての関心も高く、戦後間もない1948年に英国の国営系企業であるスチールブラザースでアルバイトをしていた。当時の社長からも信頼を得て給費学生募集に応募してロンドン大学(専攻:貿易学)へ留学した。帰国後、小笠原はスチールブラザースの日本総代理店『日英物産株式会社』を設立し、社長に就任した。設立当初から事業家としての才覚を発揮して、設立間もない会社としては異例の受注、日本鋼管のベイシックスラグ(スラグ肥料)の独占輸出権を持ち、輸入では国営企業であった日本専売公社のギリシャ葉煙草・油脂原料(椰子を原料とするコプラ)を大量に扱った。
1960年にはスイスのベルクロファスナーにいち早く目をつけて、単身スイスへ渡り交渉して、製造販売の合弁会社を設立した。
商品の命名も自ら行い、誰でも分かりやすい『マジックテープ』と名付けた。この製品は今も様々なものに使われている大ヒット商品となり、会社も順調に事業を拡大して行った。
しかし小笠原は将来を考え、安泰の道を選ばずこの事業を売却して、以前からの夢であった政治家への道を志すために、知人の竹下登氏(後の首相)のアドバイスを受けて、アメリカのプリンストン大学の大学院へ留学した。この経験が後の人生に大きな転機を生むことになった。
留学時代には積極的に人脈を広げていったが、とりわけ後の事業で重要な人物となったのは、サイラス・キャスカート氏であった。キャスカート氏はITW社(イリノイ・ツール・ワークス社:米国イリノイ州)の部長であり、在職しながらプリンストン大学の大学院で学んでいたのであった。またITW社の経営幹部にはプリンストン大学の同窓生が多くいた事も、後の事業に役立つこととなった。
ITW社は事業の柱である金属製ファスナーに加え、戦後は軽くて作業も楽なプラスチックファスナーも開発していた。このプラスチックファスナーを日本で販売しないかという話があり、小笠原は「この製品は面白そうだ、日本でも伸びる!」と直感した。帰国後、小笠原は早速ITW社との合弁会社『日本工業ファスナー株式会社(現 株式会社ニフコ)』を設立した。ただ会社を設立した当時はテレビ・オーディオをはじめとする家電メーカーや、自動車メーカーのラインではプラスチックファスナーは使われていなかった。そこでも小笠原は持ち前の営業力と小笠原理念の一つである『チャレンジ精神』を持って、日本の名だたるメーカーへ出向き、プラスチックファスナーのメリットを設計者、購買部門の方々へ力説することで、徐々に採用へ結びつけて行った。
設立してから数年は家電メーカーでの採用であったが、自ら自動車メーカーへ、プラスチックファスナーのメリットである作業効率の改善やトータルコストの削減等を、何度も何度も説き、持ち前の『チャレンジ精神』で1社1社採用へこぎつけて行った。また小笠原は営業はもとより、社内の設計、製造の現場に入って社員と一緒になって汗を流し知恵を絞り出す『現場第一主義』を貫いた。この地道な努力の結果、創業から12年目の1979年に東証2部上場というスピード上場を果たした。また1984年には東証1部へ指定替えを果たしている。
また1983年からは日本国内のみならず、台湾を皮切りにして、韓国・米国・香港と立て続けに生産拠点を立ち上げて行き、グローバル化を加速させて行った。
今では欧州・北米・アジア地域に16か国43拠点を持つまでにグローバル化が進んでいる。商品構成においても、会社のスタートであったプラスチックファスナーをベースにし、自動車の内装機構品・燃焼系部品・パワートレイン系部品、OA・住生活関連部品等の幅広いニフコ独自の製品を立ち上げ、商品領域の拡大に成功して今に至っている。
小笠原はニフコのプラスチック製品事業のみならず多岐にわたり事業を考え1983年には英字新聞の草分けである『ジャパンタイムズ社』の社長にも就任している。元来得意であった英語に加え、従前より持っていた広い人脈を生かして経団連や経済同友会の幹事・日米協会の理事・副会長や、名だたる海外企業(ナイキ、バンク・オブ・アメリカ、プルデンシャル、GE等)の国際顧問や、文化芸術関連では、日本オペラ振興会の理事、東京フィルハーモニーの評議員、(社)ユナイテッド・ワールド・カレッジ(U.W.C)日本協会の会長、(財)英語教育協議会(ELEC)の理事長等も歴任して、自ら立ち上げた製造業企業とは全く違った分野にも積極的に関わっていった。
そのような中で小笠原は1986年9月に、かねてから望んでいたこれからの日本の科学技術振興への一助になるべく、公益財団法人 小笠原科学技術振興財団を立ち上げた。